2009/11/25

さてさて次は・・・・・




次の問題は、賃金の支払い。
いつも現金払いのバリ島で、何日締めの何日払いは、考えられない事でした。
職人を集め、皆で話し合い、説明して約束事を決めましたが、
翌日の朝、目が覚めたら、私の所には、10数人の職人が、来ていました。
“明日、お祭りだから、お金が欲しいと・・・”といった具合で。

それらの契約事を解決する為に、工場を作り、工場近くに宿舎を作り、
カランアッサム地方から、職人を40名程呼び、ASHITABAの工場と宿舎で
作業を始めました。




社員として作業や給与等をシステム化することに2年位かかりました。

カランアッサムの山中の家で作られる物(契約)とASHITABAの工場&
宿舎作業場で 作られるものは、超A級品ですが、あまリ、上手でない職人も
育てなければなりません ので、当然B級品もでます。

弊社では、10段階に選別し、上から、3番目以外は、バリ島のスーパーマーケット
や市場に卸し、 A級品だけを日本本社分とバリ島の弊社ショップ分として
販売しております。

ここ数年来、
インターネット等でネット販売業者が、“ASHITABAの商品”と明記し、
弊社工場などの写真を掲載したり、あろうことか、弊社の撮影した商品画像を掲載されていたり・・・
弊社には、連絡もなく、無断でのことで実際のところ、その商品の出所は、
わかりませんので、 どうぞ、気をつけて下さい!!


ASHITABAの商品を直接お取引いただいている会社への商品、
弊社のオンライン ショップの 商品 は、基本的に、弊社タグを付けるようしておりますので
ご安心ください。

バリ島のASHITABAショップでも、原則としてタグを切るよう指示しております。


それでは、次回に続きます  … お楽しみに!!



2009/11/06

アタとの出会い!

今回は、アタとの出会いについて。


ASHITABA BALI は、現地インドネシアの会社と思っている方が、
多いようですが、実は、日本の会社の現地法人です。


今では、旅行ガイド等に外国人オーナーの店などとよくありますが、
当時は、ほとんどありませんでした。






1980年代当時、バリ島ですばらしいものは、
心地よい風と緑いっぱいの自然とゆったりした
時間の流れだけでした。


”安かろう、悪かろう”そんな中で初めて見る素材アタの商品は、
(と言っても笛を吹いたら、蛇が出てきそうな?形)でしたが、
とても繊細で美しいものでした。
でもつぼ型のバスケットだけでした。





★☆世界中で使える物をアタで作りたい!☆★



主役は使途が狭い、脇役の商品ならどこでも使える!
ASHITABAは、脇役にこだわり、デザイン製作を始めました。


当時、現地の人達には、ランチョンマットやコースターなどの
商品を理解することは、できませんでした。


何故なら、彼らには、他国の様に家族で食卓を囲む習慣がありませんでした。皆、それぞれが、台所にできているものをプラスチックの器によそい、
好きな時に好きな場所でたべていました。


もちろん、ナイフもフォークまして箸など使いません。
ちょっと前までは、右手だけで食べていました。(ヒンズー教では、左手は不浄の手とされて)今でも、子供の頭を左手で撫でては、いけませんよ。(本当!)


それ故、形、サイズをきちっと決めて、コースター、マットなど作らせても最初は、好き勝手に模様を入れたり、大きくしたり・・・
他の人よりこんなこともできると主張してきました。
(これ、何に使うの?っといった感じでした。


また、当時の腕利きな職人達は、ギャングの中間搾取が激しく、安い賃金で作っていました。いつできるかもわからない、
予定は未定?生産システム化など程遠いものでした。


まず、商品の安定生産のためにギャングを外すため、素材のアタを乾燥させたものを週1回、4トントラック一杯にして毎週買いつづけ職人に提供し続けました。
当然、ギャングから、追いかけられました。・・・(苦笑・・・)

2009/10/27

はじめまして!



これから、アシタバの本音ブログを書いていきますので、よろしくお願いします。

まず、1回目は、最初にバリ島を訪れたころのBALIのお話です。

1980年今から、30年ぐらい前のお話です。

そのころは、まさに過去へのタイムスリップでした。(そのころの日本と比べてもっともっと前という感じ)
電話も町に数本しかなく、日本への連絡(電話、FAX)は、1日がかりの仕事でした。


朝、電話を申し込み、夕方電話が、つながる・・・・という今では、想像できないことでした!!


クタにある、スリカンディコテージの前にある黒板にFAXの到着がかかれてあり、誰かが教えてくれたものでした。(そのころは、お店も少なく、みんな知りあいという風でした。)

車などほとんどなく、観光バス以外は、VWのジープが、走っているくらいでした。ドアのない(外れている??)車や屋根のない車(しゃれたオープンカーじゃないですよ!)どこも、おしりが、痛くなるほど、ガタガタ道でした。(そういう道をジャランバリと言っていました。)

当時のBALIは、観光(当時は、ヨーロッパ人のリゾート)、ヒッピーとサーファの街で日本人の観光客はほとんどいなく、ジャラン パドマから先では、日本人を見たことが、ありませんでした。特産品は、安かろう、悪かろうで、全くお話にならないしろものばかりでした。


すべて、新しいもの、便利なもの、良いものはシンガポール~ジャカルタ経由でしか、手に入らなく、高いものでした。


ガソリンスタンドは、バリに3ヵ所。所々にあるワルン(商店)で量り売りしているガソリンは、微妙に
色が、違い、大丈夫か?まあ、車もポンコツだから、まあいいかあ!という状態でした。


夜になると、街灯はなく、星と月が、ミョウに明るく、気がつくと、そこら中に座っているインドネシア人
の光る目とガラムのにおいでBALIを感じるのでした。

でも、そのころのBALIは、最高にパラダイスでした!


好きな時に起きて・・・・・好きな時に食べて・・・・・好きな時に昼寝して・・・・・

怠け者になるのが、とても簡単な島で、唯一、日本人とドイツ人は、朝仕事に出かけ、夕方帰って来る。何が、正常か?異常か?…わからない島で・・・・たぶん、多数決で行くと日本人とドイツ人が、異常な人種になるのかも・・・・・


つづく・・・・・・