2010/02/24

元気なお知らせ!! Good News!!

皆さん、こんにちわ!!

更新できずに早3か月。大変遅れていてすみません。

今度、3月にASHITBA JAPAN のオフィスを海の見える熱海に移転します!!

ということで、ブログももっともっと充実させていきますので、


どうぞ楽しみにしていてください。




Hello!! Ladies and gentlemen,


We are apologize for no udates of blog for alomost three months .


In March, we are plannig to move ASHITABA JAPAN, Tokyo office moved to Atami in Shizuoka Pref.


From the office we can overlooking the seas!!


From Spring Season, we are going to update more and more of our blog and web services so...


Please look forward to coming up to our new updates!!


thank you.




2009/11/25

さてさて次は・・・・・




次の問題は、賃金の支払い。
いつも現金払いのバリ島で、何日締めの何日払いは、考えられない事でした。
職人を集め、皆で話し合い、説明して約束事を決めましたが、
翌日の朝、目が覚めたら、私の所には、10数人の職人が、来ていました。
“明日、お祭りだから、お金が欲しいと・・・”といった具合で。

それらの契約事を解決する為に、工場を作り、工場近くに宿舎を作り、
カランアッサム地方から、職人を40名程呼び、ASHITABAの工場と宿舎で
作業を始めました。




社員として作業や給与等をシステム化することに2年位かかりました。

カランアッサムの山中の家で作られる物(契約)とASHITABAの工場&
宿舎作業場で 作られるものは、超A級品ですが、あまリ、上手でない職人も
育てなければなりません ので、当然B級品もでます。

弊社では、10段階に選別し、上から、3番目以外は、バリ島のスーパーマーケット
や市場に卸し、 A級品だけを日本本社分とバリ島の弊社ショップ分として
販売しております。

ここ数年来、
インターネット等でネット販売業者が、“ASHITABAの商品”と明記し、
弊社工場などの写真を掲載したり、あろうことか、弊社の撮影した商品画像を掲載されていたり・・・
弊社には、連絡もなく、無断でのことで実際のところ、その商品の出所は、
わかりませんので、 どうぞ、気をつけて下さい!!


ASHITABAの商品を直接お取引いただいている会社への商品、
弊社のオンライン ショップの 商品 は、基本的に、弊社タグを付けるようしておりますので
ご安心ください。

バリ島のASHITABAショップでも、原則としてタグを切るよう指示しております。


それでは、次回に続きます  … お楽しみに!!



2009/11/06

アタとの出会い!

今回は、アタとの出会いについて。


ASHITABA BALI は、現地インドネシアの会社と思っている方が、
多いようですが、実は、日本の会社の現地法人です。


今では、旅行ガイド等に外国人オーナーの店などとよくありますが、
当時は、ほとんどありませんでした。






1980年代当時、バリ島ですばらしいものは、
心地よい風と緑いっぱいの自然とゆったりした
時間の流れだけでした。


”安かろう、悪かろう”そんな中で初めて見る素材アタの商品は、
(と言っても笛を吹いたら、蛇が出てきそうな?形)でしたが、
とても繊細で美しいものでした。
でもつぼ型のバスケットだけでした。





★☆世界中で使える物をアタで作りたい!☆★



主役は使途が狭い、脇役の商品ならどこでも使える!
ASHITABAは、脇役にこだわり、デザイン製作を始めました。


当時、現地の人達には、ランチョンマットやコースターなどの
商品を理解することは、できませんでした。


何故なら、彼らには、他国の様に家族で食卓を囲む習慣がありませんでした。皆、それぞれが、台所にできているものをプラスチックの器によそい、
好きな時に好きな場所でたべていました。


もちろん、ナイフもフォークまして箸など使いません。
ちょっと前までは、右手だけで食べていました。(ヒンズー教では、左手は不浄の手とされて)今でも、子供の頭を左手で撫でては、いけませんよ。(本当!)


それ故、形、サイズをきちっと決めて、コースター、マットなど作らせても最初は、好き勝手に模様を入れたり、大きくしたり・・・
他の人よりこんなこともできると主張してきました。
(これ、何に使うの?っといった感じでした。


また、当時の腕利きな職人達は、ギャングの中間搾取が激しく、安い賃金で作っていました。いつできるかもわからない、
予定は未定?生産システム化など程遠いものでした。


まず、商品の安定生産のためにギャングを外すため、素材のアタを乾燥させたものを週1回、4トントラック一杯にして毎週買いつづけ職人に提供し続けました。
当然、ギャングから、追いかけられました。・・・(苦笑・・・)

2009/10/27

はじめまして!



これから、アシタバの本音ブログを書いていきますので、よろしくお願いします。

まず、1回目は、最初にバリ島を訪れたころのBALIのお話です。

1980年今から、30年ぐらい前のお話です。

そのころは、まさに過去へのタイムスリップでした。(そのころの日本と比べてもっともっと前という感じ)
電話も町に数本しかなく、日本への連絡(電話、FAX)は、1日がかりの仕事でした。


朝、電話を申し込み、夕方電話が、つながる・・・・という今では、想像できないことでした!!


クタにある、スリカンディコテージの前にある黒板にFAXの到着がかかれてあり、誰かが教えてくれたものでした。(そのころは、お店も少なく、みんな知りあいという風でした。)

車などほとんどなく、観光バス以外は、VWのジープが、走っているくらいでした。ドアのない(外れている??)車や屋根のない車(しゃれたオープンカーじゃないですよ!)どこも、おしりが、痛くなるほど、ガタガタ道でした。(そういう道をジャランバリと言っていました。)

当時のBALIは、観光(当時は、ヨーロッパ人のリゾート)、ヒッピーとサーファの街で日本人の観光客はほとんどいなく、ジャラン パドマから先では、日本人を見たことが、ありませんでした。特産品は、安かろう、悪かろうで、全くお話にならないしろものばかりでした。


すべて、新しいもの、便利なもの、良いものはシンガポール~ジャカルタ経由でしか、手に入らなく、高いものでした。


ガソリンスタンドは、バリに3ヵ所。所々にあるワルン(商店)で量り売りしているガソリンは、微妙に
色が、違い、大丈夫か?まあ、車もポンコツだから、まあいいかあ!という状態でした。


夜になると、街灯はなく、星と月が、ミョウに明るく、気がつくと、そこら中に座っているインドネシア人
の光る目とガラムのにおいでBALIを感じるのでした。

でも、そのころのBALIは、最高にパラダイスでした!


好きな時に起きて・・・・・好きな時に食べて・・・・・好きな時に昼寝して・・・・・

怠け者になるのが、とても簡単な島で、唯一、日本人とドイツ人は、朝仕事に出かけ、夕方帰って来る。何が、正常か?異常か?…わからない島で・・・・たぶん、多数決で行くと日本人とドイツ人が、異常な人種になるのかも・・・・・


つづく・・・・・・